インテグリティな日々

『憲法ガール』著者(弁護士)の大島義則が日々思ったことを綴ります。

ダニエル・J・ソローヴ(大谷卓史訳)『プライバシーの新理論』(みすず書房、2013年)

1 はじめに

 久々に長めの法学書を通読したので、感想を記しておきたい。

 今回読んだ本は、ダニエル・J・ソローヴ(大谷卓史訳)『プライバシーの新理論』(みすず書房、2013年)である。著者のダニエル・ソロブ(「ダニエル・ソロブ」と表記する例が多いように感じられるので、本記事ではこのように表記する。)は、プライバシー法の国際的権威であり、現在はジョージ・ワシントン大学教授である。

 ソロブは1972年生まれであり、本記事を執筆時点で40代前半とまだ若い学者であるが、複数の著名な単著を執筆している。ソロブの単著を時系列順に並べれば以下のとおりである。

  1. The Digital Person: Technology and Privacy in the Information Age (NYU Press 2004)
  2. The Future of Reputation: Gossip, Rumor, and Privacy on the Internet (Yale University Press 2007)
  3. Understanding Privacy (Harvard University Press 2008)
  4. Nothing to Hide: The False Tradeoff Between Privacy and Security (Yale University Press 2011)

 本書は上記3.を情報倫理学者の大谷卓史が訳出したものである。訳者の大谷卓史准教は、純粋な法学者ではないが、プライバシーや著作権等の法学分野に関する論文も多数執筆している専門家である。単著としては、大谷卓史『アウト・オブ・コントロールーーネットにおける情報共有・セキュリティ・匿名性』(岩波書店、2008年)が監視社会論について法学的文献を多数引用しながら論じている。

 本書は、米国法を中心としながらも国際的なプライバシー問題を論じたものであり、日本法に直接参照しうるものではないと考えられるが、日本法への多数の含意が読み取れる優れた書籍である。実際、ソロブの提唱するプライバシーの新理論は、日本の法学論文でも広く紹介されつつある。手ごろにネット上で読める論文としては宮下紘「プライバシー・個人情報保護の新世代」駿河台法学25巻1号111頁(2011年)がある。宮下は旧世代型のプライバシー理論(独りにしておいてもらう権利や自己情報コントロール権としてのプライバシー理解)と対比して、ジョナサン・ジットレインのプライバシー2.0の理論((ジットレインは、1970年代の政府のデータベースを念頭においたプライバシー状況をプライバシー1.0と位置付けたうえで、現代社会においては政府、企業その他の中間団体による監視は本質的ではなくなっており、ピアツーピア技術が発達することによりコントロールポイントやゲートキーパーが消失しつつある状況をプライバシー2.0と名付ける。Jonathan L. Zittrain, The Future of the Internet -- And How to Stop It 210(2008)))等とともにソロブのプライバシー理論を新世代のプライバシー理論として位置付けている。日本のブログを見ても、以下のとおり複数の法律関係者がソロブのプライバシー理論に着目している。

 以上のとおり、ざっと見渡しただけでも、日本におけるソロブへの注目は高まりつつあり、本書のプライバシー理論を理解しておくことは、これからプライバシー研究をするにあたっては必須になるであろう。

2 ソロブのプライバシー理論

 本書のプライバシー理論の何がそんなに目新しいのだろうか? 本書の内容を簡単に要約してみよう。

 ソロブは、従前のプライバシー理論は「類と種差」に基づきプライバシーを定義し概念化していると指摘する(本書19頁)。ソロブによれば、伝統的なプライバシー学説は、①放っておいてもらう権利、②自己への限定アクセス、③秘密、④自己情報コントロール、⑤人格性、⑥親密性の6つの一般的な型に分類できる(各型の詳細な内容については、本書20-47頁)。しかし、これらのプライバシー概念は詳細に検討していくと、いずれも広すぎるか、狭すぎるか、あいまいである。例えば、「放っておいてもらう権利」としてプライバシーを概念化した場合には、鼻先にパンチを食らわせる行為もプライバシー侵害とせざるを得ず広すぎるし、どのような場合に放っておいてもらう権利侵害になるか何らの情報も含んでいない点であいまいである(本書23-24頁)。ソロブはその他の類型についても同様の多数の事例を挙げて、プライバシー概念が過剰包摂、過小包摂、あいまいであることを逐一論証していく。

 ソロブは、伝統的なプライバシー学説がこのような共通の欠陥を抱えてしまう理由について、プライバシーの概念化の方法論に求める。すなわちプライバシーを本質主義的、一元的に理解し定義しようとするがゆえに、こうした欠陥が出てきてしまうのである。そこで、ソロブはこうした欠陥の生じないプライバシー理論を再構築するべく、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの提唱する「家族的類似」論によって、プライバシーを概念化することを試みる。父Aと子Bは目元が似ているが、子Bと子Cは目元は似ていない、しかし、父Aと子Cは同じところにホクロがある、という家族を想定してみよう。A、B、Cは共通分母となる一元的な特徴を有していないが、全体として「家族」として類似しており、その全体のネットワークを「家族」と呼称する。ソロブによれば、プライバシー概念もこれと同様であり、プライバシーは共通分母としての共通性をもたないが、家族的類似のネットワークを形成している問題群なのである。

 このような家族的類似論に基づくプライバシーの概念化の方法論については、直ちにこのような反論が可能であろう。個々のプライバシー侵害の事例の寄せ集めを「プライバシー」と暫定的に呼称するのであれば、わざわざ「プライバシー」と一言で概念化する必要はなく、単に個別事例を検討していけば足りるのではないか? なぜあえて「プライバシー」と主題化して問題を論じなければならないのか?

 こうした反論をソロブは当然に予期している。ソロブは、ジョン・デューイプラグマティズムを援用し、抽象的・普遍的原則からではなく、具体的な問題状況をきっかけにしながら特定の文脈を超えた理論の一般化を行うことを目指す(本書65-68頁、97-99頁)。その結果、ソロブはその独自のプライバシー類型論を提唱する。ソロブによれば、プライバシー問題は①情報収集(監視、尋問)、②情報処理(集約、同定、非セキュリティ状態、二次利用、排除)、③情報拡散(守秘義務関係破壊、開示、暴露、アクセス可能性の増大、脅迫、盗用、歪曲)、④侵襲(侵入、意思決定への介入)の大カテゴリー4つ、小カテゴリー16つからなる類型に分類できる(本書142頁以下)。そのうえで、ソロブは、各プライバシー類型の問題状況を描き出し、プライバシーと他の諸利益との利益衡量指針を示すのである。

3 ソロブのプライバシー理論の新しさ

 ソロブのプライバシー理論の新しさは、アリストテレス以来の類と種差に基づくプライバシーの定義論に拘泥していた伝統的学説を詳細に分析・整理するとともに、これに対して、方法論次元から包括的に批判する点にある。ソロブがそこで武器として依拠するのがウィトゲンシュタインの家族的類似論による概念化の手法である。ソロブは伝統的プライバシー学説に対して概念が広すぎる、狭すぎる、あいまいである、との批判を繰り広げるが、細かな個別事例によって伝統的プライバシーにこうした批判を投げかけるのは、チープな手法とされる危険もある。伝統的プライバシー概念の立場からすれば、そのような些末な個別事例に対しても何らかの手当てをすることは無論可能であろう。

 しかしながら、ソロブは、ただ単に伝統的プライバシー学説が、広い狭いあいまいだと言っているのではなく、そのような原因が生じているのは、類と種差による定義方法に寄っているからだとして、その理論的正当性を主張する。そして自ら自身の理論が広い狭いあいまいだという概念を避けるために、巧妙に、ウィトゲンシュタインの家族的類似概念を援用しているのである。

 こうした家族的類似概念としてプライバシーを定義すれば、「プライバシー」の概念はただ単に「プライバシー」と呼ばれる事象群に陥る可能性もある。ソロブはこのような家族的類似概念の有する理論的欠点を、デューイのプラグマティズムを援用することで克服する。プライバシーは家族的類似概念であるが、プラグマティズムの力を借りれば、それは個々の事例の単なる寄せ集めではなく、個別事例をある程度一般化したプライバシー類型論が可能となる。各類型においてプライバシーと他の諸利益との衡量基準を示すことは可能であり、それゆえに「プライバシー」と呼称してプライバシー問題を顕在化させることは有益な作業になるのだ。

 ソロブのプライバシー理論の「新しさ」を理解するためには、プライバシーの概念化の方法論、プライバシー類型論等の各理論の必然的なつながりを頭に入れておく必要があるだろう。

4 ソロブのプライバシー理論の課題

(1) 類型論の変動可能性

 ソロブのプライバシー4類型と各類型における利益衡量のあり方については論争的であり、また社会状況・技術状況に応じて変化するものでもある。ソロブも「本書の類型論において同定された諸問題は、永続的かつ不変的なものではない」(本書245頁)と述べる。ソロブにしてみれば、法的・政策的諸問題を解決するために有益なプライバシー類型をボトムアップ式で現時点で素描してみたに過ぎない。別のプライバシー類型論のあり方をソロブは否定していない。そういった意味では、現代の社会状況に応じたプライバシーの類型化は、ソロブ自身の見解によっても、常に課題となり続けるものである。

(2) 概念化の方法論次元の検証

 ソロブの主張の要点は、ウィトゲンシュタインの家族的類似論に基づく概念化やデューイのプラグマティズムの手法に基づく概念の一般化といった、方法論次元にある。したがって、根本的にソロブのプライバシー理論を批判しようと考える場合には、プライバシーの概念化に際して、こうした方法論に依拠するのはおかしい、といったやり方が適切になるだろう。

 本書では主に類と種差に基づく定義方法が批判されて、ウィトゲンシュタインの家族的類似論の方法が用いられているが、類と種差の定義方法は一般的に用いられるべきものではないのか、プライバシーについてだけ用いられるべきではないのか、もし後者であればなぜプライバシーだけそのような問題が生じるのか疑問が生じるところである。同様にプライバシー問題についてだけ家族的類似論のアプローチを用いるべき理由は何なのか、というのが問題となる。これらに関する記述も本書にないわけではないが、両者の方法論次元での比較・検討は薄い。プライバシーの概念化にあたっての方法論については、さらなる検証の必要があろう(各概念そのものではなく、方法論がプライバシー論の学問上の争点となりうることを示した点が新しいともいえる)。

(3) 方法論に付随する利益衡量テスト

 ソロブのプライバシー論の最も大きな課題は、ウィトゲンシュタインの家族的類似論やデューイのプラグマティズムという方法論に依拠することによって理論的正当性を得ていると思われる「プライバシーと他の諸利益との衡量」を行うという発想であろう。

 伝統的にプライバシーは個人的権利と考えられてきたが、ソロブはプライバシーは個人的権利である以上に多元的な社会的価値を有しており、これらと他の社会的価値とは各プライバシー類型において衡量が可能である、との立場に立っている。ウィトゲンシュタインの家族的類似論やデューイのプラグマティズムは「価値中立的な方法論」を提供しているようにみえるが、同時にこうした概念化の装置を用いることにより、概念の網の目の中にプライバシー概念をからみとって、衡量可能な存在に化けさせる、ということをやっているように思われる。価値中立的に一見見えた方法論が、その実、価値性・規範性を帯びているのである。

 このことが顕著に表れるのは、ソロブのプライバシー理論では、社会的価値に対抗する「切り札としての権利」たるプライバシー概念が排斥される、という結論である。この結論の妥当性については、さらなる検証が必要であると思われる。

5 日本法への含意

 ソロブは本書において米国法を主として参照することが多いが、世界中のプライバシー法制を視野に入れて検討を行っており、その理論の射程は国際的である。本記事冒頭で述べたとおり、日本のプライバシー理論も、この理論の影響を免れえないであろう。日本においては、ソロブの批判した独りでほうっておいてもらう権利や自己情報コントロール権としてのプライバシー概念論が未だに根強い。これらの伝統的な日本学説がソロブの批判に耐えうる理論的基盤を有しているのか否かが問われることとなろう。

 それにしてもソロブは本書で世界中の法制を対象としているが、日本の法制や事例への言及があまりにも少ない、という点が極めて残念であった。日本のプライバシー法が世界的に重要な位置を占めていない、ということを暗に示すものでもあろう。今は個人情報保護法改正作業の最中であるが、アメリカやEUにもプレゼンスを示すことができる個人情報・プライバシー保護法制を提示できるか、というのはやはり重要である。